事業としての不動産投資のすすめ
築古アパート・マンションの満室経営が地方都市を救う!
理念・考え方

東京のSIerでマーケティング職をしていた私が新潟の長岡市で不動産屋を立ち上げた理由

こんにちは、らんべるアセットの八木です。

先日、妻が第一子(長男)を出産しました。陣痛から約9時間の戦いを経て、無事生まれてきてくれました。
自分が父親になるなんて想像もしてなかったなぁー。何か感慨深いですね。

さて、今回は私自身の自己紹介させていただきます。

私はいつもお付き合いさせていただいてる業者の社長さんとかに、今までどんな人生を歩んできたのかをお聞きするのが密かな楽しみだったりします。あぁ、この人はこういう風に生きてきたから今こうなってるんだな、って。
そういう人生のドラマ、ストーリーって面白いですよね!

今日は僭越ながら私のストーリーにお付き合いください。

概略プロフィール

名前 :八木 達史(やぎ たつし)

生年月日 :1987年9月29日(32歳)

出身地  :東京都練馬区

居住歴 :
東京都練馬区→大分県大分市→北海道滝川市→新潟県長岡市→長野県松本市→青森県青森市→東京都板橋区→東京都荒川区→兵庫県神戸市→埼玉県和光市→東京都町田市→千葉県流山市→埼玉県さいたま市大宮区→新潟県長岡市

家族 :妻、長男の3人家族

最終学歴 :法政大学 経営学部

職歴 :
大手SIerに新卒で入社。4年間、マーケティング企画職に従事。
不動産系ベンチャー企業に転職。2年半で物件仕入れ、事業用物件リーシング、社内システム構築を経験。
30歳を機に退職し、らんべるアセット㈱と共に長岡市へ移住。

不動産投資歴:
大手SIerに勤務中の2012年12月より参入。不動産系ベンチャー企業勤務中の2015年12月にらんべるアセット㈱設立。
2020年4月26日現在、アパート9棟55戸、戸建3戸、区分1戸を所有。(アパート2棟14戸は売却済み)

資格 :
宅地建物取引士、賃貸不動産経営管理士、第2種電気工事士、消防設備士(乙6)、日商簿記2級、基本情報処理技術者

趣味 :投資全般、aikoジャンキー

得意なこと :論理的に考えること、プラス思考、意思決定すること、歌うこと

苦手なこと :人の顔を覚えること、方向音痴、運動音痴、絵を書くこと

飲酒・喫煙 :お酒は弱いが、飲みの席は好き。家では飲まない。タバコも吸わない。

要約

高校生の頃からおぼろげに、大学生の頃から明確に自分で働き方をコントロールできる生き方に憧れて…、と書くとカッコ良いですが、その実、「働きたくないでござる!」という一心で人間関係そっちのけでカネを儲けること、資産を増やすことに執着している自己中カス野郎の時代を過ごしました。

25歳でひとまずの目標としていた資産1,000万円を達成したんですが、一緒に喜んでくれる仲間がいない。。そんなことを、恥ずかしながら25歳になって初めて実感して虚しくなって、これまでの延長線上でこれからの人生を生きていくことは違うな、と気付いたんですね。

この時期にたまたまaikoさんのmilkという曲をYouTubeで観て興味を持ったんです。ちょっと恥ずかしかったですけど、単独でLIVEにも参戦しました。
そのLIVEでaikoさんとファンとの「あなた」と「あたし」の1対1の関係を目の当たりにして、本当に救われたんです。「あぁ、俺に足りないのはこういうことなんだ」と思いましたね。これを機に人と人との関係やコミュニケーションに興味を持ち、私は一気に社交的になりました。

会社勤めと並行して不動産投資を開始したのもこの頃です。当時、千葉県流山市在住だったんですが、楽待で売りアパートが出ていたのをきっかけ長岡市に興味を持ち、紆余曲折を経てなんとか1棟目を購入しました。その後も長岡市で2棟目、3棟目と購入して経営していくうちに、東京から来た外者の何も知らない若造にも関わらず、いや、だからこそ見かねてなのか、金融機関さん、修繕業者さん、売買仲介さん、賃貸仲介さん、入居者さん、その他たくさんの方々にご協力いただけるようになっていきました。本当にありがたいことです。

幸い、会社勤めを辞めても不動産賃貸業からの収入だけで食っていける目処が立っていたため、30歳を機に退職しました。所有する物件のほとんどが長岡市内であり、前述の通りお世話になっている方々も長岡市内に多かったこと。また、長岡市内に中古収益物件に特化した不動産会社が存在しなかったことから、社会的意義の大きい事業を展開できると考え、長岡市にて中古収益物件に特化した不動産屋を立ち上げました。

今、私自身にまったく金銭欲がないというと嘘になります。というか、ゼロにする気はなくて、人間、欲をなくしたらお終いだとすら思っています。ただ、必要以上に儲けて自分が贅沢したい、楽をしたい、と思う気持ちは以前よりかなり小さくなりました。それはたぶん、自分ひとりではなく、たくさんの方々に支えていただいて不動産投資をしてきた結果だと思います。

企業理念を実現するために会社が存在し、会社が存在し続けるために利益を取っていく必要があります。かといって、利益を出しすぎればお客様や取引業者にしわ寄せがいき、長期的な信頼関係は築けません。当社の言葉で言うところの「Mochi-Mochi」を長岡市から皆さまとともに広めていきたいです。

詳細版

長いので、忙しい人は読まないほうが良いですよ!笑

転勤族に生まれて全国を転々とした幼少期

長岡市で不動産屋をしていると、ご実家もこちらなんですか?とよくお声がけいただくのですが、「実家は北海道の札幌なんですよー」というと驚かれます。

私の父親はMR(医薬情報担当者、要は医師に対して薬の営業をする仕事です)だったんですが、その関係で実家が転勤族だったんです。金融機関にお勤めの方とかもそうだと思うんですが、癒着を防ぐ目的で定期的に配置転換させるんですね。

そういうわけで、幼少期はだいたい4年スパンで引っ越しを経験しました。

起業に憧れを抱いた高校時代

私が将来的に「自分で何かやって稼いでいきたい」と漠然と思い始めたのは東京で高校生をやっていた頃です。

当時、ライブドアがニッポン放送を巡ってフジテレビと戦ってたり、村上ファンドが敵対的買収を仕掛けてたりと「会社は誰のものなのか」が日本の世に広く問いかけられた時代でした。

複式簿記も知らない、WEBに自由にアクセスできる環境がない高校生の私からすれば、M&AとかTOBとかLBOとか何のこっちゃ、って話でしたけど、自ら意思決定してカネを稼ぐ姿がとにかく「カッコいいな」って思ったんですよね。本当に漠然とした憧れです。
まじ単純!笑

ただ、そうなるために具体的にどうすれば良いかは全然わかりませんでした。だから、ひとまず大学は「経営」とか「会社」が学べるところに行きたいな、と。

大学時代の転機となった出会い

それで法政大学の経営学部に入りました。最大限興味があるジャンルを選んだものの、大学の授業には面白さを見出せず、授業は最低限の出席。いかにカネを作るかばかりを考えていたので、友達もいませんでした。「新卒」は就職するときに有利なカードだし、「大卒」は人生の保険になるから、卒業できればそれで良いやと割り切ってました。

大学2年のときにドトールコーヒーでバイトし始めたんですが、ここで転機となる出会いがありました。
バイト先の会社のオーナー社長との出会いです。

朝のピークの時間帯に社長と2人で店を回す日々を過ごすうちに、非常にかわいがっていただくようになったんです。社長は当時30代中盤で、株の短期売買で出した利益で飲食フランチャイズ店を買っていくようなことをしている方でした。朝一から昼過ぎまでシフト入って夕方から飲みに連れて行ってもらったり、自宅にお邪魔して2人で相場張ったりしてたんですが、大学の授業行くよりよっぽど勉強になりましたね。

同じく大学2年のときに『金持ち父さん貧乏父さん』という書籍に衝撃を受けて一気に夢中に読んだ覚えがあるのですが、社長がまさに身近な金持ち父さんでだったので、このときに本で読んだ理論と社長を身近で見てきた個人的な経験が「繋がった」感覚がありました。

資産を増やすことにしか興味がなかった社会人初期

就活では将来的に起業することを念頭に、いろんなビジネスの収益構造が見れるという観点で選びました。さして優秀でもなかったので、全部でエントリーシート100社、面接で50社、内定を得られたのはわずか2社でした。笑
リーマンショック後の就活氷河期ど真ん中でしたが、数を打つことで何とか大手SIerに滑り込むことができた格好です。

SE志望だったんですが、なぜかマーケティング部署配属になったのでいろんなビジネスモデルが見れるかもという期待は大きく外れるんですけどね。笑
ただ、逆に役員に近いところで仕事をしていたため、大企業特有の組織問題やそこでの仕事の通し方を間近に見れたのは今振り返ると良かったところです。

お金がお金を生む構造は『金持ち父さん貧乏父さん』や前述のオーナー社長をみて嫌というほど認識していました。

会計をかじったことのある方なら分かると思いますが、簿記を学習していると「現在割引価値」という概念が出てきます。
要は、今手元にある1万円の方が、将来に得られる1万円より価値が高い(なぜなら今手元にある1万円を運用すれば将来には増えているから)という概念なのですが、当時の私はこれを真に受けすぎてむちゃくちゃケチになっていました。

お金が減るから人付き合いはなるべくしたくないし、飲みに行きたくないし、外に出たくないし、浪費したくないわけです。ただでさえ新卒とか2年目は手取り少ないし。月の手取り20万円切ることもざらにあったので、そんなカネあったら1円でも多く貯めて投資したいわ!というのが当時の本音でした。

そんなマインドだったんで、大学時代もそうでしたが人間関係とかめちゃめちゃ希薄でしたよね。飲み会とか普通に断ってましたし、「もうあいつは行かないから良いよ」って誘われなくなったり。
さとり世代の走りはたぶん私だと思います。笑
金銭に対する欲が異常だったからこそ、その他のすべてに無頓着だったんですよね。

本業に関しては本気で「仕事したくないでござる!」と思ってました。笑
他人のビジネスに時間をかけるよりも、自分のビジネスを育てることに時間に使いたいと思っていたからです。EXCELやPowerPoint、会社員としての立ち回りをいくら上手くなっても年功序列の給与体系ではほとんど評価なんてされないですけど、株で今より1%でも稼げるようになったら、あるいは自分で事業所得得られる何かを見つけられたら、それって一生役に立つスキルじゃないですか。

上司や先輩にむちゃくちゃ怒られったって、その上司や先輩よりも稼いでたら内心で「何か言ってんなー」って思ってちょっとは心穏やかでいれるかなって思ってたんですね。そもそも率先して何かやろうとしてなかったんで、そこまで怒られるようなこともしてなかったですけど。
自己中カス野郎ですね、本当に。

25歳での大台達成、そして転機

節約と株式投資(低位株中期待ち伏せ&スイング投資)で、資産は順調に増えていきました。そして25歳のときに、ひとまずの目標であった資産1,000万円を達成したんですね。そのときに思ったんです。

「俺、何のために生きてるんだろう」って、ここにきて初めて。

私が資産1,000万円達成しようが、世の中とか他人にとってはそんなことどーでも良いわけで、そもそもそんなことを言える相手も、まして一緒に喜んでくれる人もいないわけですよ。このままこの延長線上で頑張れば、きっと2,000万円、3,000万円と達成できるだろうとは思うんです。「でも、そのとき俺はそれで幸せなのかな…」って考えたとき、これは違うぞ、と。
恥ずかしながら、25歳のときに初めて実感して虚しくなったんです。

この窮地(?)を脱するきっかけになったのがaikoさんとの出会いでした。YouTubeでたまたまmilkという曲のPVをみて、何となくピンときたというか、「何か気になるなぁー」と思ったんです。

そこから徐々にLIVEのDVDをみるようになり、CDを揃えるようになり、気がつけば単独でLIVEに参戦するようになっていました。LIVEでaikoさんとファンとの「あなた」と「あたし」の1対1の関係を目の当たりにして、本当に救われたんです。
「あぁ、俺に足りないのはこういうことなんだ」と思いましたね。

これを機に、今まで無駄と切り捨ててきていた人と人との関係やコミュニケーションに興味を持つようになりました。既婚者となった今では大きな声で言えませんが、渋谷で毎週のようにナンパ活動に励んだり、知り合いのほとんどいない飲み会にも積極的に参加してました。今まで捨ててきていた「対人コミュニケーション能力」を何とか磨こうと必死だったんです。

不動産投資をする準備

「お金だけでは幸せになれない」と実感させられてからも、金銭欲はやっぱり人一倍ありました。別に私はブランド物が好きなわけでも、車が好きなわけでもないんです。それでもお金!となっていたのは、「時間」が欲しかったからだと思います。

私の父は前述の通り製薬会社で営業の仕事をしていました。世の中の会社員の大半がそうであるように、父もまたかなり大変そうに見えました。毎日朝8時に家を出て、帰ってくるのは22時過ぎなわけです。土日は私たち家族の相手をして、平日は朝から晩まで仕事という生活でした。

私は定年退職まで会社員生活を継続した父を心から尊敬していますが、一方で、私には同じことはできないと思っていました。ラットレースを抜け出したい私が、不動産投資に行き着くのは必然でした。

まず取り組んだのは、書籍を読み漁ることでした。不動産の世界では、現金購入にしても少なくとも数十万円、普通は数百万円が動きますし、融資を引くのであれば数千万円~億円単位でカネが動きます。先物やFXでレバレッジが効いた取引の経験があったため、生半可な知識で「とりあえず」取引してしまえば人生をまるごと棒に振るほどの致命傷を負うのは火を見るより明らかという感覚がありました。

その怖さから、100冊以上の不動産投資本を読みました。もちろんですが、その人の立場(属性や目的)が異なれば最適な不動産投資の手法も異なるわけで、細部だけみれば本によっては正反対の主張をしていたりします。
でも、大局を把握すればそれも当然やんなぁー、ということが理解できたことが収穫でした。

私の場合は、「地方都市で高利回りの築古木造1棟アパートを狙う」ことが良さそうだということがわかりました。宝探しのような気持ちで楽待や健美家を見るのが楽しみでしたし、不動産投資で人生が変えられると思うととてもワクワクしました。

不動産投資開始

私が不動産投資を始める上で、最もネックとなっていたのが融資でした。若気の至りで銀行に飛び込みで訪問したりもしましたが、すべて断られました。会社員の副業とみなされたこと、それにも関わらず勤続年数が3年に満たなかったことが大きかったのだと思います。

そんなことをやっているときに親族が埼玉県ふじみ野市の貸家を400万円で譲ってくれるという話が回ってきました。築30年超え物件で決済も一括キャッシュでしたが、既に入居者さんがついていましたし実績を作れる案件だったので飛びつきました。これが私の不動産投資キャリアのスタートです。

長岡市への参入

最初の戸建を買って1年間、アパート1棟目を探し求めていました。勤続年数は3年を超え、不動産賃貸業を営む個人事業主として確定申告もしていたため、金融機関からの見え方が以前よりも良くなっているという自負がありました。

不動産投資の本を何冊も読む中で、あるいはこれまで読んできた経営戦略の本をもとに考えると、不動産投資で出発点となるのは「エリア選定」だと思いました。

私のような零細弱小業者が並み居る競合に打ち勝つためには、ランチェスター経営戦略をとっていくしかない。一言で表すと、「競合が比較的弱いエリアにリソースを集中し、惜しみなく現地に足を運んで投資をしていく」ということです。

その上で、融資という要素は前述の通りネックになる反面、ひとたび参入してしまえば強固な参入障壁にもなり得ると感じました。融資が付きにくいエリアだからこそプレイヤーの数が抑えられており、競争になりにくい=物件価格が低い=利回りが高いという図式が成り立つのです。

そのエリアがどこなのか、楽待や健美家等の不動産投資ポータルサイトで物件をチェックしつつ、気になった物件のエリアの人口推移や平均賃料、敷金・礼金相場等のマクロの数字を調べていく日々が続きました。

そんなある日、楽待に高利回り築古木造物件の売り情報が出ていました。
その物件の所在地が新潟県長岡市だったのです。
休日に現地に何度も足を運んだり、地場不動産屋さんにヒアリングしたりして、平日夜中に事業計画書を作成。日本政策金融公庫で融資決定に1ヶ月もかかったり、父親に連帯保証人になってもらうべく説得したりと紆余曲折を経て何とか1棟目を購入することができました。

大手SIerから不動産ベンチャー企業への転職

2棟目の物件を検討する中でセミナーに参加したことがその会社との出会いでした。地方の築古1棟収益物件の再生販売、管理受託をメインに扱っている会社で、特に木造も扱っていたので興味が湧いたんですね。

そこで働く方々と接するうちに、ここで働いたら楽しそうだと思うようになりました。もう大手SIerには4年いたので勤続年数の属性を捨てるのはもったいない気もしましたが、自身の不動産投資が何より楽しくなっていたので、その延長線上で楽しく仕事がしたいと思い転職を決めました。

不動産ベンチャー企業で携わった業務と不動産投資規模の拡大

不動産ベンチャー企業には2年半在籍していましたが、その間に①物件仕入れ、②事業用物件リーシング、③社内システム構築、に携わらせていただきました。

また、規模の関係で組織がかっちり縦割りになっておらず直接携わっていなくとも業務が間近にみれる距離にあったため、急速に成長している会社がどういう仕組みで回っているのか、5,000戸を管理している賃貸不動産管理会社の内部をみれたのは大きかったです。

自身の不動産投資においては、この2年半の間に6棟のアパートをいずれも長岡市で購入しました。規模の拡大に伴い、新たに法人の設立も経験しました。これが当社、らんべるアセット株式会社です。

長岡市にアパートの棟数が増えるにつれて、金融機関さん、修繕業者さん、売買仲介さん、賃貸仲介さん、入居者さん、その他たくさんの方々にご協力いただけるようになっていきました。

東京から来た外者の何も知らない若造にも関わらず、いや、だからこそ見かねてなのか…。私の場合は特に、長岡市に物件があっても普段は東京で会社員をしていたため、ちょっとしたことでも長岡市の業者さんにお願いせざるを得ない状況がありました。このときからご協力いただいている皆さまには、本当に感謝しかありません。

働き方改革前のベンチャー企業ならほとんどどこでもそうであるように、朝晩休日関係なく猛烈に働きながら自身の会社も経営していたため、当時はカネはあっても使うヒマがないくらい忙しくしていました。思い出したくないくらいキツいこともありましたが、仲間も業務もめちゃめちゃ充実していて楽しかったです。

30歳を機に退職、完全に独立へ

幸い、会社勤めを辞めても不動産賃貸業からの収入だけで食っていける目処が立っていたため、30歳を機に退職しました。

辞めてすぐの頃は、ゆくゆく長岡市で税理士業+宅建業をやりたいと思っており、税理士資格を得るために公認会計士の勉強をしていましたが、受験に専念して少なくとも1年、実務経験に2年を費やすというスピード感に徐々に嫌気が差し、撤退。

前倒しして長岡市に会社ごと移転して宅建業者を開業することを決断しました。個人として既に宅建士は持っていましたが、これまでは不動産賃貸業のみだったので宅建業者免許が不要だったのです。

会社の事務所は当初借りることも考えていましたが、同時期に再生しようと思って買取り済みだった築50年超えの戸建が手元にあったため、これをリフォームして事務所兼住居とすることにしました。これで実質、事務所の賃貸料はゼロで済みましたし、私自身もマイホームを手に入れることができました。

長岡市で不動産屋を開業するにあたり、中古収益物件に特化することは決めていました。
理由は以下の3つです。

  1. 社会的意義の大きい事業を展開できると考えたから
  2. 同じやり方をしている競合他社が存在しなかったから
  3. 既に不動産賃貸業としては軌道に乗っており、協力していただいている方々がいたから

これからのこと

今、私自身にまったく金銭欲がないというと嘘になります。というか、ゼロにする気はなくて、人間、欲をなくしたらお終いだとすら思っています。

私は「Stay hungry,stay foolish.」というSteve Jobsさんの言葉が好きです。hungryに自身のやりたいことをやって、傍から見ればバカに見えるくらいにきちんと自身の人生を生きたい、考えています。

反面、必要以上に儲けて自分が贅沢したい、楽をしたい、と思う気持ちは以前よりかなり小さくなりました。それはたぶん、自分ひとりではなく、たくさんの方々に支えていただいて不動産投資をしてきた結果だと思います。これからもそれらの方々に報いて還元していきたいですし、その結果として、皆さまとともに自身も利益を出していける状態が健全なあるべき姿です。

前述した「自身の人生を生きたい」ということと矛盾すると感じる方もいるかもしれませんが、私は矛盾するとは思いません。自分一人だけが勝った気になることの虚しさを、私は知っているからです。

社会に尽くす、といっても会社は慈善事業ではありません。企業理念を実現するために会社が存在し、会社が存在し続けるために利益を取っていく必要があります。かといって、利益を出しすぎればお客様や取引業者にしわ寄せがいき、長期的な信頼関係は築けません。

会社をやっていると経営者の方とお話させていただくことも増えるのですが、そういう方々はどこかしら突き抜けて変人である一方で、「バランス感覚」に優れていると感じます。

たとえば、

  • 関係者全員が利益を出せる地点を見極める「バランス感覚」
  • 目的(企業理念)から目標に落とし込む際に、何の指標でどの程度を設定するのかという「バランス感覚」
  • 自社の現状と目標からギャップ(問題)を把握し、最適なリソース配分を見極める「バランス感覚」

志を持つということ、その志を具現化するためのバランス感覚を、私自身も身につけていきたいと考えております。
これらはAIでは決して置き換えられない、時代を問わず普遍的な能力でしょう。

そうして、当社の言葉で言うところの「Mochi-Mochi」を長岡市から皆さまとともに広めていきたいです。